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動画紹介「樂家15代当主 樂吉左衞門-樂茶碗に込められた伝統を語る」 [茶の湯雑感]



 大変に興味深い動画を紹介します。十五代・楽吉左衛門が楽茶碗について語ったビデオです。

 この語りの中で、私にとって重要な言葉が幾つか出てきます。
 「微妙な揺らぎ」
 「揺らぎの中に自然と一体になって行く思想が入って行く」
 「揺らいでいる物というのは、人間の心をそこに託す事が出来る」
 「焼物というのは、最終は自然に託すという姿勢」
 「非常に強く出た自己表現の部分を、最後は自然の火の中、自然の中に託する」
 「そこには、同じという事はないし、偶然性の中に晒されるし、大変なハプニングの結果がそこに生まれて来る」
 「(焼物というのは)自我の世界ではなくて、何か自我を越えた祈りの世界と繋がっている」

 私自身、抹茶茶碗の魅力は、人の計画性や規則性と自然の偶然性や不規則性が混ざりあった所に生まれる美しさや癒しの風景だと感じています。十五代・楽吉左衛門の上記の言葉は、私のそうした感覚を別の言葉で言い表しているように感じます。

 そして、十五代・楽吉左衛門の言葉の中には「侘び・寂び」という単語が全く出て来ません。私が抹茶茶碗に感じる美しさは、「侘び」でもなければ「寂び」でもない。そもそも、他の茶よりも明らかに高価な抹茶を、他の器よりも明らかに高価な抹茶茶碗で喫する事自体、その時点でもう既に「侘び」てもいなけりゃ「寂び」てもいない、生きて行く上で必須だとは言えない「趣味」「道楽」「遊び」の世界、派手で楽しい行いだと私は感じています。抹茶茶碗の美しさは、私にとっては「侘び・寂び」ではないのです。十五代・楽吉左衛門の言葉は、私のそうした感覚も言い表しているような気がします。

 まぁ、そんなこんなで。ちょっと余談でした。(笑)







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